2月第一週の聖日礼拝
2月2日(日)10:30~
説教:「神の神殿はどこに」 桐藤 薫 兄
聖書:ヨハネによる福音書2章13節~22節
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
今週の聖句:弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。(ヨハネ2:17)
本日の聖書箇所において、主イエスはエルサレム神殿の境内で商売している者たちをご覧になって、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人のお金を撒き散らすという、大変荒々しい行為をされます。この商人たちは、巡礼者が神殿に捧げる羊や牛をわざわざ故郷から連れてこなくても済むように便宜をはかる目的で商売をしているので、決して大きな問題があるわけではありません。ところが、主イエスの目にはそのように映らなかったようです。例えそうであってもこのように荒々しい行動をするのではなく、説教によって商人たちの心を変えるように努めるべきではないかと私たちは思ってしまいます。しかし主イエスは説教をなさいません。この主イエスの行為は、私たちにとって理解しにくいのではないでしょうか。
この主イエスの行為を理解する上で手かがりとなるのが、「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」という言葉です。これは旧約聖書の詩編69編10節からの引用ですが、この詩編の歌は、あまりに熱意を持っているがために、かえって神に顔を背かれた人の嘆きを歌っていると言われています。巡礼をしたのだから神様は私に恵みをくれるだろう、これだけ捧げ物をしたのだから私の人生は守られるだろう、これだけ献金をしたのだから私は祝福されるだろう、このように自分の心のなかの期待を神に求めたとき、私たちは神に顔を背かれてしまうのです。壮麗な教会は熱心な信者の献金によって建てられています。しかし、それは主イエスの望まれた教会ではありません。本日の聖書箇所では「神殿」という言葉が14節と19節、20節で3回使用されています。14節は確かに建物としての「神殿」ですが、19節と20節は「聖所」という意味の言葉で書かれており、必ずしも建物を意味しません。では、神の聖所はどこにあるのか。それは他人の痛みを自分の痛みとして感じ取ることのできる人のなかにあるのです。
私たちは神に対して自分の期待や願望を投影していないでしょうか。もしそのような考えがあるとすれば、いかに御言葉が語られて自分の期待する御言葉だけ受け入れ、そうでない御言葉は聞き入れないという御言葉の取捨選択をしてしまいます。御言葉はすべて受け入れるものであり、自分の都合で取捨選択してよいものではありません。私たちは御言葉を聞く前に、御言葉を受け入れる準備が必要なのです。だから主イエスはまだ説教をなさらないのです。私たちの心に神への期待や願望がないか、自分の都合の良いように御言葉を聞かないか、じっと見ておられます。それがあると認めると鞭で追い払い、私たちが御言葉を素直に受け入れることができるよう、その道を備えてくださっているのです。神を示す人である主イエスをそのままお迎えするとき、神の神殿は私たちのなかに建てられるのです。
2月9日(日)聖書研究会(箴言 第3章)
2月16日(日)おはなし会
礼拝後に、趣味や気になっていること等を当番の人が15分くらい話してくれます。皆でお茶を飲みながら聞きます。
2月26日(水)灰の水曜日、四旬節(レント~4/11)