新型コロナウィルスへの対応について
現在、新型コロナウィルス感染症の第二波が懸念されていますが、六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同
11月第1週の聖日礼拝 平和聖日
11月1日(日)10:30〜
説教「死に打ち勝つ声」桐藤 薫 伝道師
聖書 ヨハネによる福音書11章38-44節
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
主イエスがすでに埋葬されたラザロに対して、「墓から出てきなさい」と大声で叫ばれるとラザロが墓から出てくる。まるでホラー映画のような物語です。
当時の墓は、横穴式の形をしていたと考えられています。穴の奥に遺体を安置し、そして石で入口を塞ぎます。ですから、主イエスが「石を取りのけなさい」とおっしゃったことは、周囲の人々をぎょっとさせたはずです。ラザロが死んで4日も経っていますから、マルタが「主よ、もう臭います」というのは当然だと言えます。臭いはもちろんですが、石の向こう側には腐敗の始まったラザロの遺体があるはずです。誰も見たいとは思いません。私たち人間は死から目を逸らしてしまうのです。それでも、私たちは死を直視しなければなりません。なぜなら神は死においてこそ、その栄光を現わされるからです。言い換えれば、私たちが死を直視することによってはじめて、神とは何であるのかが分かるのです。
聖書では「声」をとても大切に考えています。「神の御言葉」とか、「神の声を聞く」といったように音に関わるもの、つまり目に見えないものを重視します。創世記では獣や鳥を土で形を作り、人間が呼ぶとそれがすべて生き物の名前となったとあります。つまり名前を呼ぶことで、動物の形をした土の置物に命が吹き込まれたのです。アルバイト先で「バイトくん」と呼ばれるのと、「〇〇さん」と名前で呼ばれるのでは全く違います。「バイトくん」という呼び方は、「他にも替わりはいくらでもいる」と言われているようなものです。相手をかけがえのない人とは見ていません。名前を呼ぶこと、それは1人の人間として相手と向かい合っている意識の現れです。それはつまり、相手が土人形のように壊れたら作り直せばよいというのではなく、替えのきかない、かけがえのない存在として向かい合っているということです。それが、名前を呼ぶことによって命を吹き込まれるということなのです。主イエスが「ラザロ、出てきなさい。」と大声で叫ばれました。この声はまさに死を打ち破り、命を吹き込む声だったのです。
神は死に打ち勝たれました。だから私たちは、死を直視することで死に打ち勝つ神を知ることができるのです。神は私たちの名前をいつも呼んでくださっています。その呼びかけに応じることが、私たちが永遠に生きるということなのです。
11月 1日(日) 聖徒の日(召天者記念礼拝)
11月22日(日) 収穫感謝日礼拝
「ちょっと買い物に行ってくる。」いつも何気なく使っている言葉ではないでしょうか。今の日本では、スーパーやコンビニに行けば、お金さえ払えば簡単に食料を手に入れることができます。それは便利で良いことです。私もその恩恵を受けています。しかしあまりに便利すぎると、食べ物をいただくことのできる感謝を感じにくくなってしまいます。食べ物が食卓に乗るまでには、種蒔き、収穫、運送、調理など多くの方々が携わっています。食べ物はプレス機械で次々と生み出されるようにできるのではありません。食べ物一つ一つには物語があるのです。収穫感謝礼拝はその名の通り、収穫の恵みに感謝する礼拝です。日々食卓に乗っている食べ物一つ一つの物語を、共に思い起こしてみませんか。
11月29日(日)~ アドベント(待降説)