新型コロナウィルスへの対応について
現在、一都三県に緊急事態宣言が再発令されていますが、六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同
3月第1週の主日礼拝
3月7日(日)10:30~
説教「私を何者だと言うのか」桐藤 薫 伝道師
マタイによる福音書16 : 13-23
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
私たちがどうしても困惑してしまうのは、主イエスがペトロを「あなたは幸いだ」と褒められたにもかかわらず、その直後に「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責されていることです。本日の御言葉はマタイ福音書全体の前半と後半を分ける部分に跨っています。前半は主イエスが神の子であることをお示しになるのが主題ですが、後半はそれが受難物語に変わります。その跨っている前後でペトロの評価がまるで違うのは、物語の主題が異なるために起こったことと言えます。主を「神の子」と告白する課題をクリアしたペトロであっても、主のご受難を受け入れるという新しい課題を課されると、途端に躓いてしまうのです。
人々は主イエスに自分の期待する姿を投影して、「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「エレミヤだ」、「預言者の一人だ」と様々に呼んでいました。そのなか、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と応答します。ところが、主がご自身の受難のことをお話になると、ペトロは「とんでもないことです」と言ったため、主に叱責されました。ペトロにとっての神の子は、苦しみを受ける人ではなく、自分たちを現在の過酷な環境から救ってくれる人でした。実はペトロも自分の期待するイメージで主を理解していたのです。ペトロが他の人々と異なるのは一つだけです。それは主の問いかけに応答したことです。「あなたはわたしを何者だというのか」という問いに対して、正面からはっきりと「あなたは生ける神の子です」と告白したことです。ここが決定的に違うのです。それこそが主に「あなたは幸いだ」と言われ、教会を建てられ、天国の鍵を授けられた理由なのです。
ペトロの躓きは、私たちの躓きです。主が「苦しみを受ける」とおっしゃって、「どうぞ」と言う人はいないでしょう。引き留めるのが人情というものです。しかし、その人情が必ずしも神の意志に適うとは言えないのです。人情に動かされて、主をサタンのように誘惑してしまう私たちです。そんな私たちを、主は私たちの「信仰がなくならないように」(ルカ22:31)と祈ってくださっているのです。主の呼びかけに応えて主を神の子であると信仰告白し、むしろ主の祈りに支えられて、おぼつかない足取りで信仰の道を歩む。そのような私たちの上に教会は建つのです。