日本キリスト教団六ツ川教会

6月のお知らせ

新型コロナウィルスへの対応について
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。

 

日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同
 

 

6月第1週の主日礼拝 
66日(日)1030
説教「こんな石からでも」桐藤 伝道師
マタイによる福音書 第3章1-9節
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)

 

洗礼者ヨハネは、当時のユダヤ社会に対して悔い改めを求め、洗礼活動を行っていました。実はファリサイ派もサドカイ派の人々も同様に、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ社会の人々を悔い改めに導こうと努力していたのです。同じような「悔い改め」運動している両者には、一体どこに違いがあるのでしょうか。ファリサイ派、サドカイ派の人々は、信仰にとても熱心な人々でした。しかし熱心がゆえに、自分たちの振る舞いが正しいと思い込んでしまいました。一方でヨハネは、自分自身がしている洗礼活動そのものに対して、「私の後から来る方」(=主イエス)に比べると、何の価値を持たないことを認識しています。つまり彼は自分のしていることを正しいとは思っていないのです。ここにヨハネという人物の特色があります。
「悔い改め」とは、「自分の理解を変える」、言い換えると「これが正しい」と考えて来たその理解を変える、さらに言えば、その理解に基づいた生き方そのものを変えることです。これは当然、「自分は正しい」という考えがあればできることではありません。ヨハネが「自分はその方の履物をお脱がせする値打ちもない」とはっきり述べていることは、ヨハネ自身が悔い改めていることを表しています。「自分が正しい」という考えがなければ、自分の値打ちなどどこにも見出せないからです。
 しかし、誰でも自分自身は値打ちのある者だと考えたいはずです。注意したいのは、ヨハネが主イエスの前においては値打ちがないと言っているところです。これは重要です。神は値打ちのない、「こんな石」とも言える者から、アブラハムの子たちを作り出すことができる方だからです。神は「こんな石」とも言える者を、選ばれた者だと言ってくださるのです。なぜそのような者を選ばれるかと言えば、彼らは何も持っていないからです。何も持っていないから、素の自分で神と向かい合うことができるからです。御言葉をそのまま受け取ることができるのです。主イエスの言葉を、私たちはそのまま受け取ること、それこそが、永遠の安らぎを得ることのできる唯一の道なのです。