日本キリスト教団六ツ川教会

7月のお知らせ

新型コロナウィルスへの対応について
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。

 

日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同

 

 

7月第1週の主日礼拝 
74日(日)1030
説教「他者を生かすまなざし」桐藤 伝道師
マタイによる福音書 第71-6
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
 
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の丸太に気づかないのか」(3節)。この御言葉は、批判してくる相手に言い返すのに便利な言葉かもしれません。誰かに批判された場合、「あなたの目には丸太が入っているではないか」と、主の御言葉を用いて言い返すことができるからです。実際に紀元1世紀のユダヤ社会では、この御言葉がそのように使われていたそうです。では主は、相手に言い返すために、このようにおっしゃったのでしょうか。
主は「裁くな」(1節)とおっしゃいます。私たちがどうして裁くのかと言えば、それは相手の過失が見えるからです。相手の過失を認めたときに、裁き、批判するのです。それは相手も同じです。しかしお互いの過失を批判し合うのは、人が集団で生きる生き物である以上、ある程度必要なことです。ただ、それが評論家のように、過失だけ批判してその解決のために責任をとって行動しない場合、集団は壊れ始めます。教会は、それぞれが評論家になって教会や教会員を批判し始めたときに崩れ始めるのです。
私たちは他人の目の中のおが屑に、すぐに気づくことができます。他人も同じように私たちの目の中のおが屑を見つけます。そしてお互いのおが屑を批判し合っているのです。では、丸太はどうやって見ることができるのでしょうか。それは神のみ前にあるとき、自分の目の中にある丸太に気づくことができるのです。丸太とは、私たちの罪のことです。私たちはそのような罪の丸太を抱えているのに、それをすっかり忘れて人の目のおが屑ばかりを気にして裁いているのです。私たちが自分の罪を忘れ、互いに裁き合うことは、自分の目の中の罪の丸太を重くすることなのです。
 私たちの丸太は、主が十字架として背負ってくださいました。そのようにして、私たちの目から丸太を取り除いてくださったのです。奇麗になった私たちの目は、他人のおが屑を、正しく見ることができます。「あなたのおが屑を取り除かせてください」と言うのは、裁きではありません。他者を生かす言葉です。私たちは主イエスによって罪を取りのけられた喜びがある、だからこそ、他者を生かすまなざしで、喜びの知らせをすべての人に伝えることができるのです。