日本キリスト教団六ツ川教会

1月のお知らせ

新型コロナウィルスへの対応について――オミクロン株の感染リスクが急拡大しています
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同

 

1月第1週の主日礼拝 
1月2日(日)10:30~
説教「安らかに去らせたまえ」 桐藤 薫 伝道師
ルカによる福音書 第2章22-35節
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
 
「安らかに去らせたまえ」
ルカによる福音書 第222-35
 
シメオンは、クリスマス物語においてあまり注目されない人物ですが、クリスマスが私たちにとってどのような意味を持つのかを示す重要な人物です。シメオンは聖霊によって「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(26節)と告げられたように、メシアを待つことを運命づけられていました。ヨセフとマリアは幼子イエスを連れてエルサレム神殿にやってきましたが、彼らは貧しい夫婦であり、幼子イエスも粗末な布に包まれただけのはずです。山鳩、または家鳩をいけにえとして献げるのは(24節)、これは貧しさのゆえに本来献げるべき雄羊一匹に手が届かないときに供える犠牲です。不思議なことは、シメオンはどうしてそのような貧しい夫婦の子供が救い主であると分かったのかということです。それは「霊に導かれ」(27節)とあるように、聖霊の導きだったのです。
 メシアと会うことができたシメオンは、神を賛美し、「この僕を安らかに去らせてくださいます」と歌います。これは「平安の内に死ぬことができる」という意味です。メシアを待つことを運命付けられ、その自らの使命を果たしたときに平安の死を歌うというのは、自分の運命が神によって定められ、自分の命が神の御手の内にあるという信仰を告白している言葉だと言えます。
 オランダの著名な画家にレンブラントの作品の一つに、「キリストの神殿奉献」があります。本日の御言葉の箇所をモチーフとしていますが、そこに描かれるのは年老いたシメオンと預言者アンナ、そしてシメオンの腕に抱かれている幼子イエスです。この絵画で注目したいのは、シメオンの目は年齢のためにはっきり見えていないようですが、そのようなシメオンを、目を開いてじっと見つめているのが幼子イエスなのです。シメオンが主イエスを見つめるのではない。シメオンが主イエスに見つめられ、その眼差しのなかにあったのです。だからこそ、シメオンは主の眼差しのなかで、「この僕を安らかに去られてくださいます」と心から神を賛美することができたのです。私たちの命もいつ終わりを迎えるか分かりません。しかし聖霊に導かれた歩みは、主の眼差しのなかにあって、最後に「安らかに去らせてくださいます」と感謝して歌うことができる。それがシメオンの物語が私たちに示すクリスマスの意味なのです。