新型コロナウィルスへの対応について――オミクロン株の感染リスクが急拡大しています
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同
3月第1週の主日礼拝
3月6日(日)10:30~
説教「私たちは何を失ったのか」 桐藤 薫 伝道師
イザヤ書第11章6-8節
マルコによる福音書 第1章12-15節
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
本日の御言葉は「荒れ野の誘惑」として知られており、マタイ、ルカ両福音書にも同様の記述があります。それらに比べると、マルコの記述は随分と短いことに気づくと思います。それはマルコが大切なことにポイントを絞って、私たちに伝えようとしているからです。マルコが私たちに伝えたいこと、それは「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(12節)ことです。「送り出す」という言葉は、強制する意味が強く、聖霊は主を荒れ野へと無理やり追放したということです。つまりマルコは、主イエスがこの地上においてご自身が望む歩みをされたのではないことを、ここで明らかにしておきたかったのです。
荒れ野は、生と死が背中合わせになった場所です。そこで人間の本性が露骨に現れます。その人間の本性は出エジプト記が明確に描き出しています。荒れ野でのイスラエルの民は、日々の生活に対する不平不満を呟き続けました。それでも神は、彼らが生きるのに必要な糧を日々与えてくださった。荒れ野は自分自身の願望や欲望を叶えようとすれば不毛の地です。しかし、神の御心に生きようとすれば、神から日々恵みを与えられ、命を与えられる地なのです。
この荒れ野の誘惑において、マルコ特有の記述は、主が「野獣と一緒におられた」(13節)という御言葉です。野獣は人間に危害を加える動物ですが、エデンの園においては、人も野獣も共に生きていました。エデンの園に荒れ野はなかったのです。しかし、人が神のように善悪を知る者となろうとしたとき、人はエデンの園から追放されました。そこから人と人との仲たがい、そして人と野獣との仲たがいが始まったのです。こうして荒れ野が生まれたのです。しかし主は、その荒れ野において野獣とともに暮らされた。強いられた荒れ野での日々を、主イエスは呟くことなく、神の御心に生き続けられた。そのとき、人と野獣が共に暮らすエデンの園が、再び取り戻されるのです。私たちが失ったものは、神の御心に生きることです。それが今の荒れ野のような社会を生み出しているのです。しかしその荒れ野は、神の御心に生きることによってエデンの園に戻る。そのことをマルコは私たちに伝えてれているのです。