新型コロナウィルスへの対応について――オミクロン株の感染リスクが急拡大しています
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同
4月第1週の主日礼拝
4月3日(日)10:30~
説教「キリストを中心に」 桐藤 薫 伝道師
マルコによる福音書 第10章32-45節
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。ヤコブとヨハネは、主イエスに対してこのように願いました。「左右に座る」というのは、支配者の両側にいて、その支配を代行する位置にある者になるということであり、一言で言えば、主イエスのもとで偉くなりたいということです。そのようなことを、厚かましくも主に直接願っているのですから、他の弟子たちは当然怒るでしょう(41節)。ここから分かるのは、弟子たちはみな、主イエスのもとで偉くなりたいと思っていたのです。主のもとで偉くなる、それは12人の弟子たちに共通した考えだったのです。
主のもとで偉くなるとはどういうことなのでしょうか。一般的な組織で偉くなろうとすれば、良い仕事をし、ノルマを達成することで評価され、地位が上がり、偉くなることになるでしょう。ところが、主のもとで偉くなることは「このわたしが飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けること」(38節)なのです。この「杯と洗礼」とは「苦難と死」を意味しており、主はヤコブとヨハネに対して「私の苦難と死を引き受けることができるのか」と問われているのです。
主の苦難と死を引き受けることが主に従うことだと考えると、私たちは困惑してしまいます。しかし、主に従うこととは、超人的な苦行を行うことではありません。主イエスを中心とした生活を作るということです。例えば、家族と共に暮らすと自分中心の生活になりません。介護が必要な親がいれば、その親が中心の生活になります。そうなると、自分自身の自由な時間はかなり制約されます。しかし、誰かを中心とした生活は、自分自身の生活を抑制的にし、義務感をもたらし、規則正しい生活に引き込みます。自分の時間を削ることは不自由だと感じますが、実は世話をすることで自分自身が生かされ、自由であったということに、後から気づくのです。主イエスを中心にした生活は、自分を犠牲にすることではなく、主によって自分自身が生かされることなのです。主の左右に座るというのは、主の権威を傘に着て人を支配することではありません。人に仕え、人の僕となる道を歩むことです。それこそが主を中心にした生活であり、苦難や死からも自由になることのできる道なのです。
4月17日(日)イースター 礼拝後教会総会があります