新型コロナウィルスへの対応について――オミクロン株の感染リスクがまだ続いています。
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同
7月第1週の主日礼拝
7月3日(日)10:30~
説教「おとめマリアより生まれ」 桐藤 薫 伝道師
マルコによる福音書 第6章1-6a節
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
本日の御言葉は、「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った」(1節)から始まりました。ここで「故郷」という言葉が使われていますが、主はナザレで育っていますから、「ナザレにお帰りになったが」と書いてもよいはずです。しかし福音書は、あえて「故郷」という書き方をしているのには理由があります。それは、主のことを小さい頃から知っている顔馴染みがたくさんいるということを強調するために、「故郷」という言葉を用いているのです。
村人の言葉で注目したいのは、「マリアの息子で」(3節)という言葉です。ユダヤ人の間では、「誰々の息子」と言う場合、父親の名前を挙げるのが普通です。ところがここで「マリアの息子で」と言っているのは、主イエスが、マリアがヨセフと結婚前に身籠った子どもであることが知られているということです。つまり、「マリアの息子」というのは、村人たちの悪意ある非難の言葉なのです。私たちは毎週、「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」と告白しています。母マリアが聖霊によって主イエスを身ごもった神の子であるということを、私たちは信じています。しかし、村人たちの言う「マリアの息子で」と言うのは、信仰告白の言葉ではありません。ここから分かることは、村人たちは私たちが恵みとしているもの、まさにそれにつまずいているのです。主イエスが一人の人として現れたことは、神の恵みの偉大な業です。しかし、その神の恵みの業を示す事柄が、村人にとって主イエスを理解する妨げになっているのです。
神の業を見るとき、大切なことはそれを信じつつ見るということです。信仰がなければ、いくら主のことを知っていようとも、その知識が役に立つことはありません。村人は確かに主イエスを知っていた。しかしそれは主のなかに神の業を見出すのに、何の役にも立ちませんでした。むしろ信じることを妨げる要因となっていたのです。信仰のないところでは、主イエスが働くことはできません。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」(5節)とあるのは、ある意味、当然のことなのです。信仰とは自分の知恵から、主イエスの知恵の中に飛び込んでいくことです。そのとき、主イエスは私たちのもとで働くことができるのです。