日本キリスト教団六ツ川教会

9月のお知らせ

新型コロナウィルスへの対応について――オミクロン株の感染リスクがまだ続いています。
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同
 
9月第1週の主日礼拝 
94日(日)1030

 

説教「神の悲しみを知れば」 桐藤 伝道師
マルコによる福音書 12:1-12
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
 
聖書ではユダヤ社会をぶどう園に喩えることがよくあります。このたとえ話では、ぶどう園の主人は神、僕は預言者、農夫はイスラエルを指しており、農夫たちは主人から遣わされた僕を次々と痛めつけ、殺害しています。これはイスラエルの民が預言者の言葉に耳を傾けず、神の言葉に背き続けたことを表わしています。農夫たちが僕を痛め続け、さらには主人が遣わした息子さえも殺害してしまう。明らかにこの農夫たちは主人を軽く見ており、主人に権威を認めていないことが分かります。 
 この主人が自分の僕が次々に殺されながら、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(6 節)と言って、息子を送り出していることは、私たちの目には奇妙に映ります。この主人は愚かではないかと思ってしまいます。しかし、農夫たちにこれだけ軽く見られながら、この主人はまだ農夫たちへの信頼を持っているのです。注目すべきは、ぶどう園の主人の考えていることが変化しているということです。最初、僕を送った時は、収穫を受け取るためでした。ところが息子を送るときは、「私の息子なら敬ってくれるだろう」というように、主人の関心は「農夫たちが敬ってくれるかどうか」に変わっているのです。僕が次々に殺されることを知って、農夫たちが自分を敬っていないことに気付いた。だから、農夫たちの心のなかに、自分を敬う心を回復させようとした。主人を主人とする。神を神とする。愛する息子を送り出したのは、まさに神の権威の回復が目的だったのです。 
 主イエスは悔い改めの心を求めて、このたとえ話されました。しかし祭司長たちは、自分たちへの当てつけだと理解したのです(12 節)。もし、このたとえ話が自分たちのことだと知り、自分の愚かさに気付いたとしたら、主人を悲しませている自分を恥じるはずです。主人の悲しみを知った者は、この話を当てつけとは思いません。悔い改めるとは、神の悲しみを知ることです。裏切られても裏切られても、なお私たちを信用しようとしてくださる神の悲しみを知ることなのです。その神の悲しみを知れば、自分の罪に気付き、悔い改めることができるのです。この悔い改めこそ、神の福音を信じることに繋がるのです。