日本キリスト教団六ツ川教会

11月のお知らせ

新型コロナウィルスへの対応について――第8波の感染リスクが始まっています。
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同
 
11月第1週の主日礼拝 
116日(日)1030
 説教「死にて葬られ」 桐藤  伝道師
マタイによる福音書 27:57-66
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
 
キリスト教が一般的なテレビ番組や書籍に取り上げられるとき、死の問題がテ
ーマとなることは少ないと思います。それはキリスト教の中心にある死の捉え方、つまり「死と復活」というのが、多くの人には分かりにくいからかもしれません。それは私たちにとっても同じでしょう。しかし、死について、私たちは使徒信条において常にその大切なことを告白しているのです。 
 使徒信条では「十字架につけられ、死にて葬られ」と唱えます。「十字架につけられ」とは、当時のローマ帝国の死刑ですから、「十字架につけられ」はそのまま死を意味します。ですから、本来であれば、「死にて」とわざわざ書く必要はないはずです。それでも使徒信条ではあえて「死にて葬られ」と書く。それは主イエスが「本当に死んでしまった」ことを明確にするためです。実は、このことは私たちに大きな慰めを与えてくれます。使徒信条では「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と唱えますが、ここでの主語は主イエスであり、他の者に置き換えることはできません。しかし「死にて葬られ」については、私たちすべての者を主語に置き換えることができるのです。つまり、「死にて葬られ」という告白によって、私たちはようやく主イエスと一つとなることができるのです。 
 本日与えられました御言葉では、不思議に思う箇所があります。それは「そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。」(66 節)主はすでに死に、弟子たちが逃げ去った以上、そこまで厳重にする必要はないはずです。しかしユダヤの指導者層やピラトは不安なのです。墓の封印と番兵は、ピラトたちの不安の現れということができます。私たちもすでに亡くなった方、また飼っていた動物が亡くなると、ふと後悔の思いに苛まれることがあります。私たちはそのたびに、後悔の念を心の中に押し込め、墓石に封印をするように、自分自身の心に封印をするのです。しかし、私たちはすでに天に召された方々は、使徒信条で唱えているように、主イエスが共に死んでくださったと信じています。主はこの方々と一緒にいてくださり、共に死を生きてくださっています。 
主イエスの弟子たちは後悔しかなかったと思います。しかし甦られた主は、決して弟子たちを責めることはなかったのです。むしろ、「あなたがたに平安があるように」と祝福してくださったのです。だから、天に召された方々も、主イエスが共にいてくださって、私たちが平安に生きるように共に祈ってくださっている。そして終わりの日に、主の前で再開する時が来る、そのような希望を私たちは持つことが許されているのです。