日本キリスト教団六ツ川教会

2月のお知らせ

新型コロナウィルスへの対応について――8波の感染リスクが続いています。
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同
 
2月第1週の主日礼拝
2月5日(日)10:30~
 説教「選択の自由」  桐藤  伝道師
ルカによる福音書   8  4-15 
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
 
「神はあなたを愛しておられる」、皆さんはこの言葉を教会で繰り返し聞いて来られたと思います。しかしこの言葉、理屈では分かったとしても、実感としては正直なところ分かりにくいのではないでしょうか。神が私を愛してくださっているとはどういうことなのか。実はそれを理解する手掛かりが、本日の御言葉のなかにあるのです。 
 本日の御言葉は、日本語としては少々気になる箇所があります。11 節には「種は神の言葉である」と書いています。そしてその続き「道端のもの(=種)とは …御言葉を奪い去る人たちである。」(12 節)とあり、主語と述語のみを取り出すと「種は人である」となってしまうのです。しかし、福音記者ルカは意図的にこのように書いているはずです。それは種と人が区別できなくなるほど、種がその人に深く入るということなのです。種と人が一体となる。だから、本来、人からは神の言葉の芽が出るはずです。にもかかわらず、芽が出なかったり、たとえ芽が出ても枯れてしまったりする。ここから分かることは、種の成長に責任を持つのはその人自身だということです。実は、ここに神の人に対する信頼、人に対する愛があります。 
 もし神が、私たちが実を結ぶように望んでおられるなら、種ではなく既に成長した木を私たちに植えたらよいはずです。でも神はそれをならさない。なぜでし ょうか。それは私たちに選択の自由を与えておられるからです。カルト宗教は、この選択の自由がありません。他の選択の扉がすべて閉ざされてしまっているのです。選択の自由が与えられない。今、問題になっている宗教二世の問題から分かるように、選択の自由が与えられないところに愛はありません。 
 主イエスは神の言葉の種を蒔いておられます。しかし、主は決して私たちの首根っこを押さえて、「さあ、信じろ、それが救われる道だ」と迫ったのではありません。種を蒔いて、忍耐して芽を出すのを待っておられるのです。神の言葉が私たちの存在の奥深くに食い込んでも、私たちには芽を出さない選択が与えられている。さらにはそれを捨てる選択すら与えられている。決して強制しない。選択の自由が与えられていること、実はこれこそが神が私たちを愛しておられる現れなのです。