日本キリスト教団六ツ川教会

3月のお知らせ

新型コロナウィルスへの対応について――オミクロン株の感染リスクが急拡大しています
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、細心の注意を払いながら主日礼拝を行なっております。
しかし、小さな教会堂に大勢の人が集まることは、ウィルス感染の観点からすれば決して好ましいことではありません。発熱、咳、くしゃみなどの症状のある方、新型コロナウィルスの感染により重症化が懸念される方(糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方)、混雑した公共交通機関を使わなければならない方は、くれぐれも無理をなさらないでください。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 主任担任教師 桐藤 薫・役員会一同
 
3月第1週の主日礼拝 
35日(日)1030
説教「僕の人生はこれでいい」 桐藤  伝道師
ルカによる福音書 11:14-23
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
 
遠藤周作『深い河』の主な登場人物の一人に、大津というカトリックの神父を志す男が登場します。大変信仰熱心ですが、相当不器用な人間として描かれています。その彼がインドでトラブルに巻き込まれて瀕死の重傷を負ったときに言ったセリフが、本日の説教題です。大津の歩んだ人生は、他人の誰が見ても良いとは言えません。しかし大津本人は「僕の人生はこれでいい」と言う。なぜそのように言いきれるかというと、彼は自分の人生に、他の人には見えない「救い」が見えていたからではないでしょうか。 
 主イエスの時代、悪霊払いが様々な人によって日常的に行われていましたが、主イエスが口の利けない人から悪霊を追い出したときは、なぜか「ベルゼブルの仕業」と言われてしまいます。口を利けないことは、当時の考えでは罪の結果と考えられていたため、多くの人々から差別の対象となっていました。そのため、群衆は「なぜ罪人が癒やされるのか」と思ったはずです。そのような差別意識が、主イエスの神の業をベルゼブルの業としたのです。注目すべきは、口の利けない人がものを言い始めたことに対して、群衆たちはただ驚嘆しているだけで、誰も喜んでいないことです。話せるようになったこの人を見て、「よかったね」と共に喜ぶ人はいなかったのです。 
 千葉市動物公園に、ロッキーという名前の首が左側にひねるように曲がっている雄羊がいます。このゲージには一緒に暮らす羊が他に 2 匹いますが、食事のとき、この 2 匹はロッキーの食事の邪魔をせず、いつも少し離れて静かに見ているのです。ご飯を食べづらそうにしているのを見ていて、横取りしてはいけないと分かっているようです。その配慮があるためか、ロッキーは自分の身体障害をハンディとは思わず、今も明るく活発に暮らしています。周囲の配慮があれば、身体障害は障害でなくなり、明るく活発に生きることができます。口の利けない人も周囲の人々の配慮があれば、生き生きと過ごすことができたはずです。主イエスは、この人が何を言おうとしているのか、忍耐強く耳をすませたはずです。ところが、私たちはその配慮と忍耐をなかなかしないのです。ならば、悪霊とはそのような配慮を示さない自己中心性だということができます。『深い河』に登場する大津は首が折れてしまいましたが、死んだとは書かれていません。ですから、大津が現地の人々の配慮のもとで、その後、生き続けたと信じることが私たちには許されています。配慮し配慮される場に生きている手ごたえを感じているから、つまり救いの手ごたえを感じているからこそ、「僕の人生はこれでいい」と言うことができる。これと同じ言葉を私たちも言うことができるとき、神の国は私たちのところにすでに来ているのです。