日本キリスト教団六ツ川教会

6月のお知らせ

新型コロナウィルスへの対応について――オミクロン株の感染リスクが縮小傾向にありますが
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、引き続き細心の注意を払いながら主日礼拝を行なう所存です。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会   牧師 桐藤 薫・役員会一
6月第1週の主日礼拝 
64日(日)1030
説教「悪霊さえも」 桐藤 牧師
ルカによる福音書 第 10 章 17-24 節
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
ルカによる福音書第 10 章は、主イエスが弟子たちを派遣する物語から始まります。弟子たちは2人 1 組で宣教していました(1 節)。考えたいのは、弟子たちの宣教は果たしてうまくいったのかということです。弟子たちは漁師など、当時あまりよく見られていない職業であった人たちです。身なりも決してきれいではありません。町の人々が訪問してきた彼らを迎え入れて、彼らの話を喜んで聞いたとはとても思えません。ところが、「72 人は喜んで帰ってきて、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。』」(17 節)とあるように、彼らは喜んで帰ってきたのです。 
 新約聖書には「悪霊」という言葉がよく出てきます。聖書における悪霊は、日本古来の祟り神のようなものと言うより、私たちの内側に巣食うものです。先日は長野県で 30 代の容疑者が女性2人と警官 2 人を殺害するという痛ましい事件が起こりました。近年、こういった殺人事件が増えているような気がしますが、これらに共通することは容疑者が孤独な人間だということです。孤独が、その人に悪霊に取り憑かれているとしか思えない行動を取らせるのです。主イエスが宣教されるなかで、悪霊に取り憑かれた男が何人か登場します。いずれも、社会の隅に追いやられて孤独に過ごしている人々でした。その孤独がさらにその人々を追い込んで、理解に苦しむ行動をとらせ、ますます阻害されるといった悪循環を生んでいたのです。 
2 人で宣教をするということは、1 人ではないということです。孤独ではないということです。だから、2 人で宣教をするとき、たとえ拒まれたり、嫌な顔をされたりしても、その気持ちを分け合う仲間がいる。重荷を分け合う仲間がいる。それが大切なのです。どんなに拒まれても、どんなに傷つく言葉を投げかけられても、これまでの経験上、自分自身の中に湧き上がってくるはず悪霊が、主の名によって 2 人で活動していると湧き上がって来ない。だから、心が沈んで悪霊に取り憑かれたとしか思えない行動を私たちがとることはないのです。主のお名前のもとでは、悪霊は私たちを支配することはありません。これは自由なことではないでしょうか。だから、弟子たちは宣教でどんなに拒まれても、不安にならな
い、傷つかない自分に気づいた、その手応えを感じた。だから、喜んで言ったのです。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。」これは、自分自身が傷つき、辛い思いをすることから解放された喜びの言葉なのです。