日本キリスト教団六ツ川教会

8月のお知らせ

新型コロナウィルスへの対応について――オミクロン株の感染リスクが縮小傾向にありますが
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、引き続き細心の注意を払いながら主日礼拝を行なう所存です。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 牧師 桐藤 薫・役員会一同

 

8月第1週の主日礼拝
8月6日(日)10:30~
説教「隣人になる」 桐藤 薫 牧師
ルカによる福音書 第 10 章 25-37 節
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)

「善いサマリア人のたとえ」でありがちなメッセージは、「皆さん、サマリア人のように善い人になりましょう」という内容です。分かりやすい内容ですが、主イエスはここで道徳的な勧めを私たちに語っておられるのではありません。このたとえ話で大切なことは「隣人とは誰か」ということです。
主イエスを試そうとした律法の専門家にとって、「隣人」とは「ユダヤ人」のことでした。ですから、主に隣人を自分のように愛することを実行しなさいと言われたとき、「私の隣人とは誰ですか」(29 節)と言い返しているのは、律法学者である以上、同胞であるユダヤ人を愛すのは当然のこととして、「もちろんそのくらいやっていますよ」と不遜な態度で言っているのです。この同胞意識は他民族に対する差別意識と表裏一体であり、主がたとえ話の後に「誰が隣人になったと思うか」(36 節)という問いに対して、「その人を助けた人です」(37 節)と言 って「サマリア人」という言葉を出さなかったのは、サマリア人に対する強い差別意識の現れと言えます。
サマリア人がユダヤ人を助けたのは、その人を見て憐れに思ったからです(33節)。ですが、このサマリア人の行いは、実はとても小さな愛の業であるとも言えます。負傷した者の傷口に油とぶどう酒を注ぐのは、当時においては一般的な処方ですし、傷ついた人のために、そのまま宿屋に居続けたわけでもありません。すぐに目的地に旅立っています。決して大げさな愛の業ではありません。自分の無理のない範囲でできる愛の業なのです。しかしその小さな愛の業に含まれる大きさは、このサマリア人は相手をユダヤ人としてではなく、一人の人として見ているということです。民族の枠組みで見ていないのです。傷つき倒れた人を見て、自分の内臓が痛むくらい、相手の苦しみを自分の苦しみとして受け取ったのです。そのような強い同情心においては、相手が何民族であるかは関係ないのです。
律法学者は「わたしの隣人とは誰ですか」(29 節)と尋ねていました。それに対して、主イエスは「隣人になったと思うか」(36 節)とおっしゃっています。「隣人とは誰ですか」と「隣人になったと思うか」とは全く違います。「隣人になる」とは行為のことであり、国籍の違い、宗教の違いを超える行為です。一人の人間として他者と出会い、小さな愛の業に励む。それこそが永遠の命を受け継ぐ業なのです。