新型コロナウィルスへの対応について――感染リスクが再び拡大傾向にありますが
六ツ川教会は主の御言葉を聞き続けるため、引き続き細心の注意を払いながら主日礼拝を行なう所存です。
礼拝に来られる方は以下の点につき、ご協力をお願いいたします。
1. 教会堂に入る際は、手指の消毒とマスクの着用をお願いします。
2. 会堂内の換気をいたしますので、特に気温の低い日は服装での調節をお願いします。
3. 着席の際は、席をひとつ以上空けてください。
4. 礼拝の短縮を行なっております。詳しくは週報をご覧ください。
5. 教会堂での会話は最小限にとどめ、礼拝後はすみやかにお帰りください。
日本基督教団六ツ川教会 牧師 桐藤 薫・役員会一同
10月第1週の主日礼拝
10月1日(日)10:30~
説教「大きな淵」 桐藤 薫 牧師
ルカによる福音書 第 16章 19-31節
(礼拝は毎週ありますが、第一週のみ紹介しています)
世界の様々な宗教がそれぞれの死後の世界を描いています。このような話は、私たちが元気なときは気にも留めないのですが、死に直面したときに何よりも必要となってきます。人は死んだらどうなるのか。この問いに寄り添うことができないことは、死の床にある人を孤独に追いやることになってしまいます。
主イエスが死後の世界について明確に言及されるのは珍しいことです。本日の御言葉では、ある金持ちと貧しいラザロが登場していますが、よく見られる死後の世界観のように、金持ちは陰府に落ち、ラザロは天の宴会に招待されています。しかし一般的な物語と異なる点は、この金持ちは確かに毎日贅沢をしていたにしても、取り立てて大きな悪事を働いたわけではなく、ラザロも善い行いをしていたわけでもありません。なぜ金持ちが陰府に、ラザロが天の祝宴に招かれた理由がはっきり書かれていないのです。
この物語で注目したいところは、この金持ちが「ラザロ」という名前を知っているということです。彼にとってラザロは気になる存在でした。彼の生活は贅沢三昧の何不自由ない日々です。しかしラザロには彼が持っていない何かがあるということを、直感的に感じ取っていました。この物語で大切なことは、ラザロには名前があるということです。この名前は「神は助ける」という意味です。ラザロは神さまの助けによって生かされていたのです。金持ちが持っていなくてラザロが持っていたのは、この「神の助け」です。金持ちは自分の力で生きていると思っていました。お金さえあれば生きていけると思い、実際にそのようにしていました。しかしそのことによって、彼は「神は助ける」という神の憐れみから、最も遠く離れたところで生きていたのです。それが、金持ちが陰府に落ち、ラザロが天の宴会に招かれた理由なのです。
自分の力を信じて生きる。それはこの金持ちの生き方です。私たちもそうであれば、私たちと神との間に越えられない「大きな淵」が生まれます。しかし、私たちは主イエス・キリストを信じることによって越えることができます。主は病気の人に、よくこのように尋ねておられました。「私を信じるか。」そのことに「ア ーメン」というとき、私たちはラザロと同じように天の宴会に招かれます。それが私たちにとっての死後の世界なのです。